昭和52年4月25日 朝の御理解

御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い。一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」



御道の信心を、長くさせて頂いておる人が沢山おりますけれども、信心は頂いておりましても、おかげを受けていない人達が、沢山あるという事。ただ、永年、信心をしておるというだけで、おかげを受けていない。その内容に、これほど信心するのに、どうして、このような事が起きるであろうかといった様なものと同じような同質のもの。同じ性質のものが、心の中にあるからだと、私は思うですね。ね。信心はやめない。やはり、やめないというよりも、止めきらない。それでいて、おかげが受けられない。ここに、お互いの心の中を、改めて見ることが大事だと思います。
よく、お届けをされる、その中に、信心して、こう言う困ったことやら、難儀な事になりますと、神様のお顔に泥を塗ります。どうぞ、助けてください、おかげをいただかせて下さいと言う意味のようなお願いをなさる方があります。だから、私は、何時も、それくらいに寄り付く。あーた方が、おかげを頂かなくっても、落としても、そのために神様が、私の顔に泥を塗ったといったような神様じゃないですよと。ただ、自分が助かりたい、一つの、神様を、これほど信心するのに、どうしてこういう様な事がと言うような内容があるから、そういうお届けをするのです。あんたが一人、おかげを落としたからと言うて、あれが、おかげを落としたから、私の顔が汚れたと。何なら、教会にお出でても良いです。まぁ熱心な信心をしよって、どうしてあんなことが続くだろうかと、と、人に言われる様な事では、神様のお顔に泥を塗ります。どうぞどうぞ、おかげを頂かせて下さいと言うて、願うたり、お取次ぎを頂いたりする。ね。
だから、はぁ、神様が、私の顔に泥でも塗られたら大変だから、おかげをやろうと言うたり、思うたりしなさる様な、神様ではないという事なんです。ね。神様は、目先のこと、目先の事やらは考えておられない。先の先まで考えておいでられる。ね。してみると、信心はしておるけれども、信心が留まっておる人が、まぁ、殆んどだという事になるのじゃないでしょうかね。信心が進展していない。一つも進んでいない。昔、覚えたことを、一つ馬鹿のように、馬鹿の一つ覚えと申しますはねぇ。そして、それを、金科玉条のように守って信心をしておる。もういい加減、おかげを受けなきゃならんと思うけれども、おかげが受けられない。ね。
私は、おかげを受けるという事は、ね。問題は、自分自身が助かるという事。どのような中にあっても、自分が助かっておるということ。どのような場合であっても、神様に御礼を申し上げれる心が、生き生きとして、湧いてくるように頂けること。そういう生き方にならせて頂く時に、信心は留まることを知らない。いよいよ、より本当なこと、いよいよ、これが本当だと確信される信心へ進んでいく。しかも限りなく。だから、本当のおかげが頂かれてくる様になる。心が助かってくる。人間の幸福の条件が、段々、足ろうてくる。いやぁ、私の方は巡りが深いから、ね。人並みじゃおかげは頂かれんといった様な事を言ってる。そんなら、人並み以上の信心すりゃ良い。自分がおかげを受けきらない、一つの、言い訳にしておる人がある。私の方は、もう巡りが深いから、他所のような訳にはいかん。自分で決めておる。本当に、他所よりも巡りが深いと自覚に立ったら、ね。それこそ人が人偏なら、私は行人偏といったように、ね。もうちょっと、自分の信心を工夫してみる。果たして、自分が本当だと思っている事が、本当なのだろうか。自分の信心が、これで良いのかと言う、私は、姿勢を取り直さなければいけないと思う。ね。
氏子信心しておかげを受けてくれよ。氏子信心しておかげを受けてくれよという、神様のお心というのは、ね。いつも心が平生で満ち溢れて、しかもその、平生な心には、おかげ移り、その喜びの心には、人間が、生きていく上に、痛い、痒いがあってはならぬ、ね。あれが無い、これが無いというような事ではならない。人間の生きていく上に、ね。限りない御恩恵と言うものは、用意してあるのであるから。その御恩恵に浴していけれる信心。それが、私は、御道の信心によって助かったという事だと思う。いうなら、人間の幸福の条件が足ろうてくる。足ろうていないとするならばです、ね。先ず、自分の心の助かり具合と言うものを検討しなければならない。ね。そして、どこに助からない元があるのかを分からなければならない。それを、信心は日々の改まりが大事と。もう、日々、そこに、どういう些細な事であっても、ね。必ず、その些細な事の中にも、神意があり、神様のお心が動いておるのである。それを、迂闊にして、ただ、便々と信心を続けておる。そして、一向に、自分も助からない、いわば、助かってない証拠に、それに伴うところの、幸福の、いわゆる条件と言うものも足らない。それでまぁ、信心して、おかげであーた、もう、身体も健康で、もう別に、もうあれこれ、困ったという事も無いと言うておる人は、沢山ありますけれども、ね。いうならば、自分の心の中に、または、形の上に頂けておるものは、ね。それが、神様に通うだけではなく、人にも通じなければいけない。
はぁ、なるほど、あっちは、金光様の信心しなさるが、もう一家中が、本当に、助かっておられる家庭と言うのは、あぁいう家庭であろうか。同時に、やっぱり、家も繁盛している。いわゆる、家繁盛、子孫繁盛がなされる。氏子信心しておかげを受けてくれよと言うのは、そういうおかげを受けてくれよという事なのであります。どうして、この様な事がと、例えば、言わなくても、心の中に、そういう心があったのでは、もう信心は、留まっておるのであるから、前進しないから、ね。進展しないから、おかげの進展にも繋がらないという事になる。もう、どんなに、おかげを頂いても、これで良いという事は無いと私は思うな。もうこの程度、おかげいただいとりゃ、もう結構ですと。安直な事はないと思う。ほんなら、やはり、限りない心の進展もなされなきゃならない。ね。何時もが、これで済んだとは思わんと言う信心姿勢が出来てくる。
私は、今日、御神前で、何にも頂かなかった。そして、この教典を、紐解かせて頂いたら、四十二節を頂いた。四十二節といや、昨日一昨日かも頂いた。これはまぁ、実際この通りなんだ。ね。これはど信心するのに、どうしてこんなことが起こるであろうかと、例えば、言わんでも、心に思うておる人が沢山ある。そういう心の状態では、もう信心は留まっておるのだから。これはまぁだ、信心が足りんと思うて、そこから、一心の信心をしていけば、そこからおかげが受けられるという、ね。言うなら、その、弾みじゃない。ここからという、一つの、信心の転換を願わない。ね。信心させて貰うて、思い込みが強くなるという事は、素晴らしいことなんだ。けれども、その思い込みが、自分の助かりにも、おかげにも、人間の幸福の条件というのが、足ろうて来ないとするならば、その、あんたが、今思い込んでいる、その思い込みは、間違いだと、先ず悟って、次のおかげの受けられる、しかも、限りなく、おかげの受けられる信心を目指させて貰い。そういう信心に、切り替えていく姿勢が、こらはまぁだ、信心が足りんのだと思うて、一心にと言うのは、そういう事だと思う。ただ、おかげが受けられんから、さぁ断食をしたり、水をかぶったり。はぁ日に一遍、参りよったのを、二遍も三遍もお参りをする。そういう事じゃないんだ。これは信心が足りんと言うのは、そんな事じゃないのだ。今の合楽では、むしろ、そういう事は、間違いだと言っておる。ね。
なるほど、自分の信心の、例えば、教会参拝でも、ね。自分の都合の良か時だけ参るといったようなものではなくて、ね。本気で信心を頂きたいという姿勢でお参りをさせて頂いておりましても、ね。これで、おかげが受けられんなら、これはまぁだ、信心が足りんと言うところを、今、はっきり、合楽で明示してあるのが、合楽理念だと、私は思うです。ね。それこそ、なそうと思えば、子供でもなせる様な事を、おろそかにしておった。なるほど、神様が、求めなさる修行は横に置いて、ただ、自分の我流の修行ばかりをしておった。その、我流の信心をさせて貰いながら、これほど信心するのにと言ったって始まらないという事。ね。もう、この道を行けば、絶対だといわれる、その道に出らなければ。そして、そこを歩かなければ。いや、行じなければ。ね。
先日の、川上さんが、大祭を頂かれて、そして、その大祭の時のお説教の芯を纏めて、信心には、先ず、迫力が要る。果たして、自分の信心に迫力があるかどうか。信心には、真心でなからなければならないと言うが、果たして、自分の信心は、真心であろうか。信心には、純真さ、そして度胸が要ると言われる親先生のお言葉を、一つ一つ、身に着くよう、努力してまいりたいと存じます。なかなか、どういう、ほんならば、迫力を持った人であっても、真心が欠けておってはならず。どういう、例えば、ほんなら、真心の厚い人だと言うても、果たしてそれが、本当の真心かどうかを検討する純真さが必要であり、同時に、信心には度胸が要る。
例えば、この四つの焦点なら、焦点と言うところをです。ただ、迫力とか、真心とか、純真とか、度胸とかという言葉は、もう何時も、至るところで、金光教の信心をすれば、聞くことである。だから、これが、本当なものになっていく手立てと言うのが、合楽理念は、微にいって、細に渡って説いてあるのですよ。おのずと真心にならず、はぁ真心とは、こういう事だ、これが本当の真心なんだ。ただ、素直、素直と言うて、いわゆる、純真さと言うのは、信心で言う、いわゆる、天地金の神様が求め給う純真さとは、こういう思い方、または、事が純真なのだと。迫力のある信心を信心をしておると思いよったところが、ね。どんなに、例えば、打ち込んでも、打ち込みどころが間違うておる。ただ、一生懸命、お参りをするとか、御用を頂くとかと言うて、その一生懸命が、かえって、神様に苦い思いをさせる様な場合ですらがあるという事。
あるんですよ、はぁもう、御用、御用、私が、福岡の修行中の時分でした。ある教会におかげを頂いて、女ながらも、一人で、飛行機を一台献納した。大変、お繰り合わせを頂いた。ね。やっぱ、その時分の飛行機代ち言うたら、その自分の金で、一万円。戦時中のことですから。で、戦争が終わって、大変、難儀な事になっていかれた時分に、私の所へ見えられた。神様に、その事をお届けさせて頂いたら、雨の降る日に草履を履いておる。だから、もう、それこそ、しずくが、ぼとぼと、落ちてるところ、こう、ぶら下げられておるところを頂いたです、草履が。ね。濡れてるから、こうやって、下げときますよ、しずくが切れるまで。ね。なるほど、飛行機一台、自分で献納した。いうなら、自分で、大した御用が出来たと思うておるけれども。神様は、かえって、嫌な感じだと思いなさったに違いは無い。まぁ、それに類似した、私はあの、御用に、もう、憂き身をやつして、打ち込んでおる人があります。そして、おかげが受けられない。ね。だから、御用、御用と言うてね。捕り手の役人のごたる、その、御用、御用じゃいかんちいう事なんです。ね。御用とは、御、用とかいてあるのですから。本当に、神様のお心に添い奉る。いうならば、神様の手にも足にもならせて頂こうかと言う、その神様の手にも足にもならせて頂こうかと言うのですから、神様が分からずして、どうして、手に足になることが出来ましょうか。ね。
御道の信心は、いうならば、ね。合楽理念の中の芯にもなると思う、天地日月の心になること肝要だと教えられる。もう、それだけは、知っておるけれども、ほんなら、天の心とは、地の心とは、日月の心とはと、本当に、それを追求しようともしない。天地日月の心になるという事は、実に、楽しくて愉快で、有難くて。そういう答えが出てくるのが、神の心を心とするという事なんですね。天地日月の心を心とするという事は、神の心を心とするから、神様の願いが分かってくる。神様の、手にも足にもなろうという事が、神の手にも足にも使うて下さる。ね。そこに、おかげのルートが、大きく開けて来る。
私は、本当に、御道の信心をさせていただいておる、多くの信者、いわゆる、信奉者の方達が、永年、信心を続けておると言いながら、ね。私共は、もう、いうならば、どういう事があっても、これはまぁだ、信心が足りんと思うて、信心を続けておりますと言うてね。続けておるだけなんです。改まって続けていない。ね。そして、私の場合は、他所さんよりも、巡りが深いから、他所さんのような訳にはいかんと言うて、巡りのせいにしてしまう。ここに、はっきり、明示されているんです。合楽理念と言うのは。ね。もう、根本的に、思い方を変えなければいけないのです。天地の親神様が、どうぞ信心しておかげを受けてくれよと言うのは、はぁ拝んでくれ、御用を頂いてくれという事じゃないのです。ね。神様の、いわゆる、助かる理念に基づいて、絶対、助かるという、その理念に基づいて、自分の信心の行動がです、ね。現されていく時に、初めて、おかげが受けられる。そして、その内容はと言うと、天の心になろうという事に精進しておる。もう、いよいよ、地の心を身に付けて行こうと精進してる。そして、いよいよ、道月の心。いわゆる、なそうと思えば、子供でもなせるような事を、おろそかにしておった。大きいところだかは、ちゃっと間違いなくやっておるようにあるから、間違いなくやっておるように思うておる。もう子供でも、なそうと思えば、なせる様な事に、おろそかになっておる。
まぁ、私は、夕べ、ちょうど、何時だったろうか。十一時ごろだったでしょうか。昨日は、少し早寝で出てきた。ちょうど、北野から、共励会で、桜井先生と、上野先生がおかげ頂いとった。帰って来ておるところで、私が、御祈念中に帰ってきておった。まぁ、必ず、私は、お広前を、ずっと、ぐるぐる回って歩きますから、ね。そして、こういうところに、こんな手落ちがあって、この教会内に、本気で信心を求めております、合楽理念に基づいてと言うておる人達の、いうならば、人が、ここにおる広前だろうかと思うようなところが、幾ヶ所でもございます。毎晩あります。
第一、電気の消し忘れ、ね。ね。食堂から炊事場の、いうならば、取り片づけ、ね。もう、本当に、言うならば、毎晩、回らせて頂いて、もうこれは、私が、こんなに口を酸いくして言っておることが、みんなに徹底していないという事だから、いわば、徹底させきっていないのだから、改めてまた、神様にお詫びをさせて頂く訳ですけれども、ね。本当に、ほんなら、私が、その夜まわって感じることは、なそうと思えば、子供でもなせることです。今、そうですか、ここで修行しておる人だけでも、二十何人おりますでしょう。勿論、お広前が、こんなに、段々、広うなってまいりましたから、ね。けれども、その一部屋一部屋に住んでおる事だけは、間違いないのですから、一部屋一部屋に、そこに寝泊りさせて頂いておる人達が、ね。自分の周辺のことを見回していったら、ね。それこそ、なそうと思えば、子供でもなせる様な事が、おろそかになっておる。そこから、おかげが漏っておるという事になるのです。
昨日は、ちょうど、久富さんも御用頂いておられて、私が、周るから、十分、一緒に着いて回っておられて、なるほど、先生が、毎日、言いよるとが、ほんなこつと思いなさったじゃろうと思うのです。ね。やっぱ、回らんなら、どこに、どげな手落ちがあるやら分からんと言う気がするんですよ。ね。ですからね。本当に、日月の心と言うのは、もう本当に、実意丁寧神信心という事でしょう。ね。正確無比、それが、日月の心です。ね。天が、与えて与えて止まない、麗しき心ならば、地は、もうそれこそ、黙って、受けて受けて、受けぬく心でしょう。ね。そういう信心を、機軸にするところから、おのずと、生まれてくるのが和賀心。何故、和賀心が頂けるか。神様のお喜びが、私の心の中に頂けるからです。神の心を心としての信心が出来ておるから、神の心と同じ、同質の、いわゆる、和賀心が育っていくのですよ。いかにも、和賀心和賀心、はぁ、自分には、和らぐ心が足らん、喜びの心が足らんと言うて、まぁ、思いますけれども。ほんなら、それを、和の心に、喜びの心に変えていくものはです。神の心を心とするという信心が必要なんです。信心とは、結局、その神の心を心とするという事なんです。ね。だから、大変、難しいことのようであるけれども、ほんなら、合楽理念をもってすると、それが、有難う、楽しゅう、だから、有難う、楽しゅう出来ると言う所まで行ってない。
御神前で、今日は、何にも頂かなかったけれど、この四十二節を頂いて、こら、二三日前も頂いた御理解だったが。大体、どういうところを信心して頂こうかと思うたらね。南無妙法蓮華経と頂きました。ね。私は、それから、直感した。まぁ、南無と言うことは、ね。いわゆる、仏様に帰依する、神様に帰依する心だと。法蓮華経と言うのは、そういう神様を頂きながらね。神様へ対する、惚れ込みが足りんのだという風に、まぁ俗っぽい、頂き方ですけれども、そう感じた。この四十二節は、私はこう頂いた。もう、死ぬほどに、もう、あの人と一緒になれるなら、ね。もう、どういう事でも、それこそ火の中、水の中も厭わんと言うようなね、惚れ込みが足りんのだと頂きました。御道の教師になりたいというたり、ね。どうぞ、良い信者にお取立て下さいとか、例えば、口で言うたり、思うたりはしよるけれども、まぁだまぁだ、惚れ込みが足りんのだ。南無してないんだ、帰依してないんだ。ね。だから、始めから、そんなに、ほんなら、信心が好きなと言うような人は、沢山おりませんけれども。やはり、おかげを頂きたい、お徳を頂きたい、人間の幸福の、いうなら、条件も足ろう中に、一生を終わりたい。そして、出来ることならば、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるという、御神徳も頂きたいと言う願いは、誰しも、金光様のご信心いただきゃ、頂けるものなら頂こうという気があるだろうと思う。ね。その、いうなら、信心が好きになり、神様に、いよいよ、惚れ込まずにはおれないほどしの神様が見えてくるという事を、合楽理念を説くのです。ね。いわゆる、楽しゅうなり、有難うなり、愉快になる。ね。結局、お互いが、南無妙法蓮華経が足りんのだという事に結論されます。ね。そこからです、好きな人がいう事ですから、もう、それこそ、右向けといや右向き、左向けといや左向くと言う、ほんなら、素直な心、それが純真さですよ。それをやってのけるのが度胸です。ね。そこから、生まれてくる、止むにやまれん、尽くす心が真心です。ね。
四十二節は、しじゅう二節、言うならば、死に、という事になる。四十二節は、ね。それは、ね。自分と言うものが、空しゅうなるという事です。死んだ気でという事は、自分と言うものを空しゅうなる。だから、信心は、日に日に生きるが信心なりと教えておられる。日に日に生きるという事は、日に日に、新たな自分が生まれてくるという事である。為には、日に日に、自分と言うものを殺していかなければいけない。自分というものが、空しゅうなっておらなければならない。自分が、空しゅうなっておる事は、その実証が、あぁしたい、こうしたいと言う思いがなくなるという事である。ね。
お位牌さんが、お水が飲みたい、甘いものが食べたい、辛いものが飲みたいといった様な事を言いなさる筈がない。ね。死んだきりなんだから。私は、この四十二節は、ね。そういう、し、二、とこう頂く。ね。これほど信心するのに、どうしてと言うて、信心を、おろそかにしたり、やめたりする人はない。そういう人は、沢山、教団の中にもあります。何十年、その証拠に信心を続けておる。けれども、いうならば、巡りの影に隠れて、ね。または、自分の、一つ覚えの中に、それを、助かりの信条のようにしておって、実際、助かっていないという人達がです。ね。ひとたび、ほんなら、合楽理念を本当に聞いて分からせて頂いたら、ね。そこから開けてくる、いうならば、ね。教団、全体の上にも、それが言えれる。これが金光教だという、その、これが金光教だと決めてしもうておるところに、金光教が、何時までも、大きくもなれないし、いや、段々、痩せきれていくのです。ね。金光大神は、そんなに小さい方ではなかった。勿論、天地金乃神様の偉大なお心に叶われたほどしの方ですから。自分達で、金光教を小さくしてしまって、ね。箱庭か、または、植木鉢の木のようなもので、枝を曲げたり、植えなおしでもしよるけれども、いっちょん、大きゅうならん。言うならば、そして、大きゅうなりたい、大きゅうなりたいと言うたって、大きゅうなれるはずがない。ね。それこそ、大地に、どっかと根を生えて、ちった、繁り過ぎるごつ、こう繁っていくような、そういう働きを中止して、神様がおられる事を感じたならばです。ね。私は、もちっと、一つ、大きな心にならせて貰うて、同時に、これが本当だといったような思い方を止めて、より本当を願い、求めてからの信心。それには、やはり、信心が、いよいよ、好きにならにゃいけません。ね。
昨日、末永先生が、今度、南米のほうへ参ります、壮行会を、あのように、まぁ本当に盛大に、こんなに大丈夫だろうかと、私は、全然こっちがタッチしないもんですから、びっくりしてしもうた。ね。
雨が降る、風が吹く、ね。その雨が降ることにも、風が吹くことにも、お天気な事にも、ね、さえ有難いと思わせて貰えれる信心。お天気の日だけが有難いのじゃない。そういう生き方になる時に、神様は、その氏子の上に、いよいよ、雨も、・・・。昨日、久富繁雄さんじゃないけれども、おかげを頂きましてから、かんらんを、ちっと伸びすぎた、かんらんを植えた後に、だから、繁雄さんのためには、素晴らしいお天気である事になりましょう。ね。久留米は、昨日は、大祭でしたから、久留米の大祭のためには、やはり、せめて、一時か二時ごろまでぐらいは、降らんで済むのでなからなければならん。こらもう、絶対と言うて良いほど、おかげを受けられますね。久留米の、昨日は、御大祭でしたから。ね。だから、久留米の教会に都合の良いように、お天気であり、久富繁雄さんのために都合良いために、お湿りであるというような働きを、自由にしてくださるんです。
二三日、昨日一昨日、高橋さんが、香椎花園から、この日曜日に、お弁当が、沢山注文があっておる。ところが、ラジオでは、雨風雷雨が伴うてのと言う報道をしておる。どうさせて頂こうかと言うから、私が、受けときなさいと、私が申しました。それで、昨日、お弁当作って、さっさと、もう持って行こうとしておるところへ、その、また、ラジオで、いよいよ、お天気が悪くなることを報じておりましたから、出ろうとするところへ、電話が架かってきた。そしてあの、止めてくれ、中止してくれと。それでも、これだけ沢山の弁当を作っとるとに、どうしましょうかと言うから、私が、強引に持って行きなさいと、私が言うた。もう、売れんなら売れんで良いけん、もうとにかく、置いといて下さいと言うて持って行きなさいと言うて、昨日、朝、電話がかかってきたから、そう申しました。ね。まぁ、弁当のことですから、ね。一時か二時ごろまで、お天気であるならば、大体、売れるだろうと、私は思います。ね。ですから、三福寿司の為に、昨日はお天気が、ね。あったと言うても良いわけです。もう午後は、繁雄さんの為に、雨があったと言うても良いわけでしょうが。そういうね、事が自由に、いわば、天地が自由になるというほどしの神様なのですから、ね。そんなら、日頃、神様の心を心としてと言う生き方が出来ずして、そういうおかげの受けられるはずがないよ。はぁ、神様の心を心とするところは、そんなに難しいことじゃない。合楽では、そこをです。有難う、楽しゅう、しかも愉快に、ね。それこそ、この川上さんの、今度の大祭に、四国からお参りしてくるとに、それこそ、もうちょいと、僅かな時間で、もうあの、飛行機が出らないとか、船が出らないとか、ね。もう後は、飛んだ飛行機が、また、元に戻るとかと言う様な事であって、私の乗った、その飛行機だけが、まぁ、濃霧の中ではあったけれども、ちょうど、御大祭に間に合うように、ご参拝が出来て、まるきり、縫うように、ご参拝のおかげを頂いたと言うております。ね。それが頂けれる。だから、雨でも有難い、風でも有難いという生き方をね。いよいよ、身に付けていく。それには、いよいよ、南無妙法蓮華経である。ね。本当に、その神様に惚れこまにゃ。自分の頂いておる先生に惚れこまにゃね。先生は、あげな無理な事を言うて、さぁ、先生に惚れ込んでおるなら、その無理なことでも、聞かずにはおられんのが、ね。やはり、惚れた弱みと申しましょうか、ね。そういう、私共は、惚れ込みが足りんのじゃなかろうか。なそうと思えば、子供でもなせる様な事を、おろそかにする様な事では、私は、信心が好きとか、惚れ込んでおるとは言えない。もちっと、ね。好きになる手立て、そこに合楽理念は、焦点を置いて説きます。ね。
本当に、合楽理念をマスターして、それを、行の上に現していったら、信心が、いよいよ、好きになります。ね。そこから、いわゆる、生みなす信心と言うのは、私は、そいう中から生まれてくるものを、生みなす信心。如何に、生みなす生みなすと言ったところで、一人で生みなせれるはずがない。神様と氏子とが惚れ合うて、そして、一緒になって交流して、初めて、生みなされるのですからね。どうぞ。